ご意見無用

2月20日(月)
 
今日の記事、ご意見は無用です。
 
 
夕方のニュースを見ていると、
 
光市母子殺害事件の判決についてやっていた。
 
事件から長い時間が経ってようやく辿り着いたひとつの結論。
 
元少年の死刑確定。
 
事件について調べ、ほんとうにおぞましい犯行内容を知ると、
 
遺族のはらわたの煮えくり返るような思いは想像に難くない。
 
人として許せない。私はそう思った。
 
もし自分の家族にこんなことが起こったとしたら、自分は耐えられるだろうかと考えずにはいられない。
 
 
遺族の方が記者会見で語った「正義」という言葉。
 
元少年の更生をはかることが社会正義なのか、
 
犯した罪に対して命をもって償うことが社会正義なのか。
 
これについて答えはないとおっしゃっていた。。
 
 
事件に対する立場によって、正義の意味や解釈は全く異なってしまう。
 
私は、正義とは弱い立場に置かれた人が守られるという理念、及びその仕組みを指す言葉と理解している。。
 
この事件で弱者とはだれか。
 
殺害された母子のことだろう。
 
しかしながら、この2人はどんなに守りたくても、すでに殺害されてしまっている。
 
もう守りようがない。
 
では、この事件に弱者はいないのか。
 
違う。
 
やはり、遺族の方だと私は思う。
 
元少年も弱者だと、とらえる考えもあるだろう。
 
育った環境や未熟な精神がゆえに起こしてしまった事件で、
 
これからの人生を左右される元少年も弱者だとする考えもわからないではない。
 
 
しかしである。
 
最愛の家族を凄惨極まりない手段で殺害され、
 
筆舌に尽くし難い苦悩と感情の嵐に襲われ続けた遺族の方に、こんなことが言えるのか。
 
元少年も守られるべき弱者だと。
 
否。私には言えない。
 
 
 
世の中に死んで当然の人間はいないと信じているが、
 
理由によっては死んでも仕方ない人間というのがあるのだと思う。
 
それが死刑という罰を受ける人のことだろう。
 
死で償う。
 
 
この先、元少年がどれだけ後悔や反省を重ねたとしても、
 
殺害された母子は戻らないし、
 
遺族の悲しみや失った時間は取り戻せない。
 
死刑を免れた加害者に真の反省ができるのか。
 
仮に反省を得られたとして、では遺族に対しどんな償いができるのか。
 
 
 
 
 
何の罪もなかった自分の最愛の家族を奪った相手が
 
刑務所の中で私たちの払った税金で生き延び、
 
そのうち知らない間にまんまと社会に戻ることが許せるのか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正義とはなにか。また死刑の賛否について論じるつもりはない。
 
しかし守られるべき弱者は存在する。
 
この凄惨な事件に決着がつくことで、弱者である遺族にひとつの区切りがもたらされる。
 
その区切りをもって遺族の方に、少しでも平穏な時間が訪れることを願いたい。
 
 
 
 
 
 
ここに書いたことは全て私個人の意見です。
 
 
 
 
つづく