停電で思うこと

昨日の仕事中、台風の影響による停電を経験しましたが、

改めて現代社会における電力への依存度というものに気づかされました。

現在の社会において、電力ゼロという状況は

あらゆるシステムの機能停止を意味しています。


もちろんこれまでの様々な経験から、電力に限らず

我々の社会はあらゆる方面での危機管理体制を見直し続けていますが、

それでも想定外の事態というものが起こる可能性はあります。


もし、万が一、億が一というまったく想定外の事態が発生してしまったら、

準備のない私たちには、とても厳しい状況が待っているでしょう。



さいわい昨日の停電はわりと早期に解決し、

システムの機能停止は最小限に抑えられましたが、

それでも、わが社では電力供給が不安定という理由で、

しごとを断ったり延期するという事態が実際に発生していました。。

最善を尽くせる状況でなければ、しごとを受けないという判断も必要です。

安全を保障できないことは、するべきではないでしょう。



さて、話は変わります。

電力なしの不便な状況で最初に思ったこと。

それは「便利さの見直し」です。

少なくとも200年くらい前にはこんなに便利な生活環境はなかったわけで、

人に会いたければ、会いに行くしかないし、

暑さも、寒さも、たいていの不快な感情は、

それを当然のこととして受け入れざるをえなかった環境で人は暮らしました。


しかし、エネルギー資源の発見と、それを活用する技術の獲得により、

人はそれまでの不便さを解消し、絶えない欲望を次々と満たせるようになりました。


これはワタシも含めてすべてのヒトにいえるでしょうが、

一度満たされた欲望や、知ってしまった便利さは、

なかなか忘れることができません。。


「じゃ、明日から移動は徒歩のみですので、よろしく。」とか、

「今日でネット社会は終わりです。おつかれさまでした。」なんてことになったら、

それだけでも、けっこうしんどいことが予想できます。



不便さを楽しむ程度で済めばいいですが、

突然の社会インフラ縮小や部分消滅ということになると、

私たちはパニックに陥ること間違いありません。。



電力を生み出す方法や種類についての議論を耳にするとき、

○○絶対反対!を頑なに貫く主張もあれば、

現在の生活を維持するために仕方ないのであればやむなしという主張もあります。



双方の隔たりは

現実と理想の折り合いをどこに見出すかという視点の違いから生じています。

危うくて手におえないかもしれない道具の使い方で議論が巻き起こっていたとしても、

ヒトの欲望はとどまるところを知らず、リスクや倫理の境界をあやふやにしたまま、突き進もうとするかもしれません。

そういう興味、欲望の追求が今日の便利な社会をつくりだしたことも現実のひとつです。

我々はきっとこれからも、もっともっと便利な社会を追求するでしょう。。



欲望の追求と、不便さへの回帰は

けっして合い入れるものではありません。



停電で最初に考えたことが

「ケータイ・スマホの充電できない、どうしよう」だった人は

けっこういたはずです。。

ワタシも実際そうでした。



あらためて便利さを見直すとき、

いまの社会を成立させている背景や土台となっているものについて

よく考えないといけないなと思いました。


自分は今の便利さを失ってでも、

資源の使い方、社会のあり方に反対する覚悟があるのかどうか。。





う~ん。。

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考えないふりをしてしまいそう。。。