引き受ける
自分のなかにおこったことは、
そんな一瞬の積み重ねが
自分にしか引き受けられない。自分でしか責任を負えない。
ここのところ、よくこういうことを考える。
当たり前といえばあたりまえのこと。
おともだちをきっかけに考える。
自分の体でも心でも魂でも、
そのなかに起こった変化は誰のせいでもない。
妙な言い方になるが「自分」のせいですらない。
「自分」といったのは、自ら知覚できる「意識」のことを表したかったから。
「自分」は「自分」だと信じるちっぽけな「意識」のこと。
「自分」は「自分」だと信じるちっぽけな「意識」のこと。
おおむね自分のことは、「自分」の思い通りにはならない。
生活していると、意図しない一瞬の態度が、
「自分」の思ってたことと、かけ離れた結果をもたらすことがままある。
すべては自分の招いた出来事。。
喜んだり、悲しんだり、傷ついたり、驚いたり。。
怪我も病気も事故も災難も決別も和解も妥協も孤独も、
「自分」ではどうしようもできなかったこと全部ひっくるめて、
最後は自分が引き受けることになる。。
誰かが話は聞いてくれるだろうし、共感もしてくれる、助けてもくれるけど、
最後のさいご、自分とかわってもらうことは誰にもできない。
自分を引き受ける覚悟というのは、
たぶん、じっと育てる種類のものじゃない。
その時々、瞬間的に求められるもののような気がする。
知恵という蓄えとして刻まれるんだろうと
ぼんやり考えている。。
何からでもつかみ取って、自分の蓄えにする。
「おともだち」から教わったことのひとつです。。